中野における物見遊山の考察 ~ローカルチャーを中心に

An essay on a sightseeing excursion at Nakano from standpoint of local culture
髙橋芳文
法政大学 大学院 政策創造研究科 博士後期課程
Yoshifumi Takahashi
Doctorate Course, Hosei Graduate School of Regional Policy Design
要約
 中野における物見遊山の魅力は、ひとことで言えば「混沌」である。その背景の1つは、物資の集積場として栄えた江戸時代から、鉄道開通による市街地の変遷、中央線沿線に共通する文化と新宿の文化が融合など、地理的要素が絡んでいると考えられる。もう1つは、その混沌が新たなシーズを生み出す「下地文化」になっている点である。その筆頭がサブカルチャーの象徴である中野ブロードウェイだが、現在建物の老朽化が問題視されており、建て壊すとなれば中野のブランドであるサブカルチャーの存続が懸念される。
一方で、民間の力で立ち上げた観光協会が、中野区の経済界を巻き込みながら数多くのイベントを開催など、目覚ましい勢いで街の活性化を押し進めている。その機動力の根源には、20年前から蓄積された人のネットワークと、後進を育てる手腕にあることがヒアリングを通して明らかになった。
また、中野駅北口の西側にある警察学校跡地の再開発エリアには、オフィスビルや大学が整然と建ち並び、東側の込み入った路地と対極の構図を成している。こうした一見アンバランスに見える街並が、中野の物見遊山の資源になっているのだが、今後の開発の方向性を間違えると混沌という個性を損ないかねない。そのためには、観光協会を核とした民間の街づくり組織と行政の連携が不可欠である。 

キーワード:中野区、都市観光、物見遊山、ローカルチャー、サブカルチャー

Ⅰ.はじめに
 東京都中野区は、サブカルチャーの聖地として、国内はもとより海外からも注目を浴びている。これを受け、区内における民間の地域活性化事業が活発化するなか、行政も「中野区都市観光ビジョン」を掲げ、ともに街歩きルートの開発などに乗り出している。名所旧跡の少ない中野区は、従来型の観光には不向きだが、サブカルチャーの集積地である中野ブロードウェイや路地裏の飲食店街など、街の散策に適した資源は豊富である。
本稿では「観光」を「物見遊山(見物して遊び歩く)」として捉え、なおかつ「物見=目的をもって訪れる」「遊山=気ままな街巡り」と位置づけた上で、中野の街の特性とその背景について考察する。なお、タイトルのローカルチャーは、「ローカルチャー=サブカルチャーを含む広義の大衆文化」と、「地域文化=ローカル+カルチャー」という造語の2方向から捉え、それぞれを区別して使用する。

Ⅱ.中野区の地理的要素と歴史
中野区の地理的要素と歴史中野区は、東京23区の西部、武蔵野台地の東端に位置する人口30万人規模の都市である。20~30代の人口比率が高く、総世帯の半数を単身世帯が占める。区内のエリアは東西を結ぶ3つの鉄道路線1を軸に4つの地域で構成されており、中心市街地であるJR中央線沿線の「中野・東中野地区」、西武新宿線沿線を中心とした「野方・都立家政・鷺宮地区」(北西)と「新井薬師・沼袋・江古田地区」(北東)、南部の地下鉄丸ノ内線沿線「新中野・中野坂上・中野新橋・中野富士見町地区」に区分される。これらの鉄道網は東西の移動に終始しているため、南北の移動についてはバスが補完しており、2005年には北西部や南部地域にはコミュニティバスや新たな路線が追加され、中野駅周辺への利便性が向上した。
現在の中心市街地は、中野駅開業にとともに発展し、駅利用者の人数とその階層によって変化を遂げてきたエリアである。一方、鉄道開通以前の中心市街地といえば、江戸時代、青梅街道沿いに形成された中野宿であった。同地は、甲州方面から運ばれる穀物の集積地で、神田川に設けた水車の動力を利用した製粉所や、醤油や味噌の醸造所などの加工業が発達した。また、江戸中期には、厄除け祈願で有名な堀之内妙法寺(杉並区)へ参詣に向かう人々で賑わい、道中に必要な物品販売店や飲食店が軒を連ねていた。
明治の中期に入ると、この青梅街道沿いに鉄道の開発計画が持ち上がり、さらなる発展が見込まれていた。しかし、騒音、振動等を懸念した地域住人による猛烈な反対運動が起きたため、やむを得ず街道筋から離れた現在の中野駅周辺エリア(現在の駅舎よりも100mほど西側)に開設することになったのである2

1.JR中野駅に乗り入れている地下鉄東西線を含めると路線は4つになるが、中野区に該当する中野駅・ 落合駅区間はここでは除外する。
2.計画の段階では、現在の地下鉄丸ノ内線の中野坂上駅に当たる位置が中野駅になる予定であった。

 こうして1889年4月、雑木林や野原に囲まれた一帯に中野駅は開業した。初期の主な駅利用者は、堀之内妙法寺(杉並区)や新井薬師、宝仙寺への参詣客であった。やがて、大正時代になると関東大震災で焼け出された人々が移住し、区内の人口は急増。駅利用者数も格段に増え、駅舎が手狭になったため、昭和4年に現在の位置に移転する。この移転によって駅前の商店街が急速に発展していったのである。
さらに、2012年、駅北西部の警察学校跡地の再開発によって、オフィスビルや大学などが建設され、新たにオフィス街、学生街としての側面も加わった。このエリアは江戸時代、徳川綱吉の「生類憐みの令」によって設けられた野犬保護施設「お囲い犬屋敷」があった場所で、約30万坪もの広大な敷地であった。また、明治期から昭和20年の終戦にかけては、陸軍の施設が置かれ、陸軍の鉄道隊、電信隊、気球隊が創設された(1897年)。さらに、これらの施設が移転した後、昭和13年には防諜研究所(後の陸軍中野学校)が創設されるなど、長い歴史的にわたって「官」が管理する地区という背景がある。
Ⅱ.「物見型」の観光資源としてのサブカルチャー
1.サブカルチャーの発展を促進する歴史的背景
手前中央にかかるサンモールの屋根につづく形で中野ブロードウェイが建つ。[都市出版「東京人」2012年2月号p118より引用]
ここでは、中野におけるローカルチャーの中から、同地の代名詞ともなっているサブカルチャーを取り上げる。サブカルチャーの定義は広義にわたるが、往々にしてマイナー志向が強く、流行とは一線を画した独自の価値観を持つマニアックな世界である。こうした世界を嗜好する人にとって、中野のもつ歴史的背景は見事に合致している。たとえば、かつて陸軍の施設(鉄道隊、電信隊、気球隊、陸軍中野学校など)が創設されていたことや、日本初の写真専門学校の小西写真専門学校(1923年創設・後の東京工芸大学)、日本初のアニメーション学科を開設した大学(2003年・東京工芸大学)など、サブカルチャーを構成するコンテンツには事欠かない。
こうした歴史背景をふまえると、あらゆる情報がインターネットで得られる時代にあって、わざわざ中野に出向こうとする人は、単に物を買いに来るのではなく、中野という街が醸し出す特有の空気感を味わうために来訪している可能性が高い。つまり、サブカルチャーというコンテンツは目的をもってその地を訪れる「物見型」に適した資源だと考えられるのではないか。
2.「サブカルの聖地」中野ブロードウェイ
(1) 中野ブロードウェイ開業の経緯
 中野が「サブカルチャーの聖地」と称されるのは、ひとえに「中野ブロードウェイ」の影響によるものである。同ビルは、低層階のショッピングセンターと中・高層階の集合住宅で構成された複合ビルで、1966年に開業した。全長140m、幅45m、地下3階、地上10階建ての建物で、ショッピングセンター部分は地下1階から地上4階。1階と2階に設けられた吹き抜けの通路は、南側は隣接する中野サンモールのアーケードに、北側は早稲田通りにつながり、中野駅北口から北部の住宅街に抜ける歩行者用通路の役目を担っている。この動線こそが、中野ブロードウェイ建設における最大の目的であり、ブロードウェイの「ウェイ」は、この通路を示している。
同ビルが建設された背景には、地元の商店街による再開発計画があった。中野駅北口の正面にある中野サンモール商店街(旧・美観通り商店街)は、かつて密集した住宅地によって行き止まりになっていた。1959年、その住宅地をまとめて買収して巨大なビルを建設し、その1階に早稲田通りに抜ける通路を兼ねた商店街を設けるという計画が持ち上がり、建設計画地域一体の土地買収が行われたのである。
(2)サブカルチャーに適した異質な建物構造
中野ブロードウェイ地下1階から4階の店舗部分フロアマップ[「東京人」都市出版2012年1月号p128より引用]中野ブロードウェイの建物構造は、「物見型」の観光資源と位置づけることができる。同ビルは、今でこそマニア向けの店舗が数多く入居しているが、開店当初は、「ファッションタウン」を目指しており、店舗の4割が服飾品店であった。しかし、1980年代半ばに入ると大型チェーン店の台頭や、経営者の高齢化などの問題も浮上し、徐々に空き店舗が増えていった。ゴースト化が進むなか、逆に空き店舗に積極的に出店していったのが、1980年に2坪ほどの店舗を構えていた漫画専門の古書店「まんだらけ」である。出店当初は、近隣の店舗から漫画専門というジャンルに対する偏見によって嫌悪感をむきだしにされることも多々あり、歓迎ムードは皆無であったという。しかし、同店が牽引力になり、様々なジャンルのサブカルチャー製品を扱う店が増えていった。
同ビルは、建設当時から独特な構造をしていた。まず、エスカレーター1階から3階に直行する「昇りのみ」で、下り、あるいは2階と4階へ行くには階段かエレベーターを使わなければならない。一方、1階から地下1階へのエスカレーターは「下りのみ」である。さらに、不自然に曲がった狭い通路に狭小店舗がひしめき合い、低い天井と窓のない空間が閉塞感を際立たせている。このような特殊な構造になったのは、床面積を大幅に増やし、建設費の早期回収を最優先にした開発業者の意向によって利便性が犠牲にされたことが原因であった。
しかし、狭さや低い天井、窓のない閉塞的な空間、という通常の店舗ではマイナス要素になる点も、サブカルチャーにとっては独特の異空間を演出するプラス材料になる。そして、小さいながらも強烈な個性を放つ店が集中することで、各地に点在するサブカルファンを一気に集約することができる。さらに、老朽化と空きテナントを解消するために賃料が格安に設定されたことが相次ぐ出店を後押しした。こうした偶然が重なって、中野ブロードウェイという個性際立つビルが完成したのである。
3.ローカル・カルチャーを核にした「遊山型」観光
1.中野区に根付く多彩な「下地文化」
(1)混沌とした文化を創出する背景
 中野の街の魅力は、多様な文化が自然発生的に生まれ、それらが混在している街であることが挙げられる。古いものと新しいもの、突拍子もないものと平凡なものが、同列に並び、それが普段の生活のなかに当たり前のように溶け込んでおり、その様子を眺め歩く楽しさが、中野の観光資源になっている。つまり、じっくりと観る「観光」ではなく、回遊する楽しさを味わう「遊山」に適した街だといえる。
このように混沌とした街が形成された要因は、「中央線文化」と呼ばれる若者文化(音楽、演劇、漫画、アニメ)と、新宿の文化に挟まれているという中野の地理的な条件が左右していることは否めない。その影響から、異質な物を排除するのではなく、個性として許容する文化が自然に根付き、それが下地となって新たな地域固有の文化(ローカル・カルチャー)を生み出す原動力になったのではないだろうか。
(2)井上円了に見るローカルチャーの原点
 中野は、東洋大学の創設者である井上円了ゆかりの地でもあり、同大学の前身である哲学堂公園は、東京都の名勝にも指定された中野区を代表する文化遺産である。一般には知名度の低い円了だが、偶然にもローカルチャーの基本精神の祖ともいうべき資質をもった人物で、その世界観は哲学堂公園3のユニークな造りにも現れている。
3.哲学堂公園は、哲学にまつわる建築物、池、坂、四季折々の花などを眺めながら、円了が追求した哲学を視覚的に楽しめるように設計された公園で、区民の憩いの場所になっている。
 井上円了は、哲学による文明開化を提唱した人物で、「妖怪博士」という異名をもつ妖怪研究のパイオニアでもある。全国津々浦々を行脚して伝承を拾集し編纂した『妖怪学講義』は全6冊にも及び、妖怪に関する資料の筆頭に挙げられている。円了が妖怪という珍妙なテーマに真正面から取り組んだのは単なる道楽ではない。世に蔓延するオカルティズムを自然科学の見地から検証し、その存在を否定することで迷信を撲滅することにあった。その理由は、思い込みや偏見にとらわれない客観的な観察力と、主観的な思考力こそが哲学の基本であると考えたためである。
また、円了は官立大学の学問を「官学」とし、対する自分の学問は「田学」であると位置づけている。豆腐の田楽は身分の上下に関わらず食べられるが、鯛に同じことはできない。田学はまさしく田楽と同様で、自分は貴賤貧富を問わず学問という料理を提供することを本分とする、としている。この田学の位置づけはローカルチャーに通じるものがある。
明治維新後の御改革の時期に、妖怪学という理解されがたい学問を興した井上円了は、ユーモアと個性あふれる人物であり、その教えを広める地として選んだのが図らずも中野であったことは、同地のローカルチャーおよびローカル・カルチャーの祖としても評価されるべきではないだろうか。
2.ローカル・カルチャーの発信源 中野区観光協会
(1)設立から1年半で目に見える効果を発揮
 中野区観光協会は、2012年6月に発足した100%民間運営の団体で、地元イベントを盛り上げる牽引役になっている。観光協会発足以前、中野区には多くても数万人規模のイベントしか存在しなかったが、観光協会が統率を取ることで区内最大のイベント「中野にぎわいフェスタ2013」への集客数は約16万6千人(暫定)にまで上昇した。ほかにも、中野区観光大使4の選出、4種類の地域マップ作成(翻訳版を含めると6種類)、各種イベントへの主催・協力など、わずか1年半の間に実行している。このように豊富なコンテンツを次々発信することで、中野の「遊山型」観光にさらなる魅力を与えている。
こうした協会の活動は、地方との連携にも発展し、北海道の名寄市の名物になった「煮込みジンギスカン5の街」のブランドづくりにも協力している。新たに、北海道の弟子屈町(てしかがちょう)とのコラボレーション企画が持ち上がり、中野の各飲食店が同地原産のジャガイモを使ったメニューを考案するなど、中野区内にとどまらない広域連携が着々と進行している。
この展開の速さは、協会発足以前から、各地区の商店街青年部が連携して行った数々のイベントで、経験を積んでいたことにある。すでに2009年には中野区商店街連合会によって、中野区発祥のつけ麺の食べ歩きイベント「つけ麺味めぐり」6を開催し、30万円という低予算で約1万人の集客(2日間合計)に成功している。さらに翌2010年10月には、商店街連合会の青年部監修による「中野風つけ麺」を関東地区のファミリーマートで販売し大きな反響を呼んだ。この時点で各商店街の青年部長から末端まで、ネットワークが築かれており、協会が発足した直後にすぐ具体的活動に取りかかることができたのである。
4.区内住民によるネット投票によって選出。最終選考で任命された8人が、ボランティアで多方面に向けて宣伝活動を行っている。
5.家庭料理であった煮込みジンギスカンを名寄市に招待された観光協会のメンバーが地元の名物料理にすることを提案。「中野にぎわいフェスタ」のブースで提供したところ大きな反響を呼んだ。
6.第3回開催日が東日本大震災と重なった影響で、各メディアへの出演が中止となり、その後のコラボレーション企画も白紙になった。イベント自体は継続しており、2013年現在、第5回を迎えている。
(2)豊富な人材と経済界の連携
 同協会の役員・名誉職には、法人会、商工会議所、工業産業協会、商店街連合会、信金協議会、という中野区すべての経済界のトップが顔をそろえている。これによって、協会の運営が一部の利害関係によって左右されず、純粋に来訪者にとっての利益だけを考えた企画が迅速に実施できている。同じ中央線文化に属する高円寺の阿波踊りや阿佐ヶ谷の七夕祭りなど、100万人規模の大イベントを成功させている杉並区でも、各駅の商店街の活動に終始しており、区全体としてまとまった動きは見られない。面積、人口、立地条件など違いを考慮したとしても、中野区経済界のまとまりは異例である。
これを実現させたのが観光協会理事長、宮島茂明氏で、「中野の三羽烏」と呼ばれる地域活性化のキーパーソンの中の1人だ。2人目は、佐々木洋文氏(中野工業産業協会副会長)、3人目が高山義章氏(観光協会監事)である。宮島氏と佐々木氏は、ともに法人会の青年部副部長をつとめた折に懇意になった。佐々木氏の提案で法人会、商工会議所、商店街連合会、青年会議所などに属する若手同士で顔を合わせる機会を設けるなど、横のつながりを強める努力を続けるなかで出会ったのが、青年会議所の委員長経験のある高山氏だった。こうして宮島氏、佐々木氏、高山氏という三羽烏が誕生し、20年の歳月をかけて経済界に横断的なパイプを広げていったのである。
そして、現在の経済団体の幹部は、横のつながりが強い人たちの代になっている。長年の経緯は現在の若手メンバーもよく理解しており、先達同様に幅広いネットワークを構築している。各イベントの成功は、こうした人材に寄るところが大きい。
(4)今後の主な活動
1)イベントアドバイザーとしての役割
これまでに観光協会が培ってきたノウハウと人脈を、区内の広域エリアに提供し、各地域で自発的な活動がしやすい環境を整える。 2)土産物の開発
地元の名産になる土産品の開発および販売。醸造文化の歴史になぞらえ、味噌を使った加工食品の開発を検討中。街めぐりに訪れた人だけでなく、地元の人が余所の地域に持って行く土産品になることが狙い。3)「聖地巡礼型」観光の広報活動
漫画、映画、歴史などをテーマに、聖地巡礼型の観光資源を取り上げていく。情報収集や、著作権に対する交渉のほか、発信媒体の検討など、現段階ではスタッフが確保できない状態で、具体的な動きには至っていない。 4)インターンシップ制度
協会運営に協力する学生ボランティアに対し、インターンシップとして単位取得できるよう、明治大学や帝京平成大学と交渉に入る予定。実現すれば、ボランティアスタッフの継続的な確保や、学生自身の利益にもなる。
Ⅳ.今後の課題
1.中野ブロードウェイの老朽化
 建設された中野ブロードウェイは、2016年に築50年になり、老朽化とその対策が大きな課題となっている。しかし、同ビルは住宅・テナントともに分譲であり、転売、転貸など、権利関係が複雑に入り組んでいるため建て替えは非常に難しい。仮に建て替えできたとしても、前述したように建物の古さや不便な構造というサブカルチャーとの親和性が失われる上に、今と同じ条件でテナントが入ることは不可能である。 今後、中野ブロードウェイという街のシンボルが失われた場合、サブカルチャーの空気感を求める人の心が離れ、雑多なものを受け入れる文化をも失う可能性がある。そうなれば立地としての利便性だけが残り、単なる便利な街として否応無しにファスト化が進んでいくはずだ。こうした懸念も街づくり計画のなかで念頭に置くべきではないだろうか。
2.継続性を生み出す仕組みづくり
 今後、取り扱うイベントや企画が増えるにしたがって、新たに作成するものだけでなく、過去のデータを更新する作業のボリュームが大きくなる。特にマップ作成については定期的な更新が必要であり、各地域の取り組みに温度差が生じると、更新されるエリアとそうでないエリアが一目瞭然になる危険もある。ボランティアという流動性の高い人材である以上、スタッフのモチベーションを高く維持するとともに、人が入れ替わっても臨機応変に対応できる恒久的な仕組みを作り出すことが必要になるだろう。
3.行政との連携および棲み分け
 観光協会の活発な活動に背中を押される形で、行政も「都市観光」を区のテーマに掲げている。しかし、それぞれの棲み分けが明確になっていないことは問題である。個々の店舗情報や各地域のイベントのスケジュール調整などは、多くの団体と交流が密である観光協会に統括し、イベントへの動員数、経済効果、歴史的資料といった行政にしかできない分野を担当するなど、お互いの得意分野に徹底した方が来訪者を惑わせずにすむはずだ。
参考文献
○ 書籍
中野サンモール商店会(1989)『サンモールの歩み』
東京にふる里をつくる会(1979)『中野区の歴史』 菊池章太(2013)『妖怪学の祖』角川選書
○ 雑誌
『東京人』2011年10月号〜2012年3月号 教育出版
○ WEB
中野区観光協会 http://www.nakano-kanko.com/
中野区公式ホームページ http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/
中野経済新聞 http://nakano.keizai.biz/
まるっと中野 http://www.visit.city-tokyo-nakano.jp/
○ 資料
中野区都市政策推進室「中野区観光ビジョン」(2012)
ヒアリング
中野区観光協会 理事長 宮島茂明氏 2013年10月28日
中野区観光協会 専務理事 塩澤清俊氏 2013年10月21日
その他
明治大学国際日本学部教授 小笠原泰氏
「中野の街に観光は必要か~中野白熱教室」(中野MIX-UP!主催イベント)