香港の都市景観における看板の現状と課題

法政大学 大学院 政策創造研究科 博士後期課程
髙橋芳文
調査の目的と背景
 都市景観における屋外広告物は、景観の阻害要因とされることが多いが、一方で、街の個性や活気を演出する舞台装置として欠かせないものでもある。本稿では、看板大国である香港を事例に、「看板=観光資源」という視点から、同都市における景観政策の現状と課題をとらえ、アジア諸国に共通する都市景観の魅力を考察する。
1.香港の地理的概要と歴史
香港地図香港は、香港島を含む約235の島と、九龍半島、中国本土と接する新界で構成された中国の特別行政区である。清王朝時代は、人口数千人の漁村であったが、アヘン戦争を機にイギリスの植民地となり、以後、中国に返還されるまでの約150年間、イギリスの統治 が続いた影響から、東洋と西洋の文化が混在する都市となった。
1997年の香港返還の際には、行政区画上は中国の特別行政区として位置づけられたが、「一国二制度」の適用によって高度な自治権と資本主義制度の存続が認められた。これは、中国本土とは大きく異なる社会構成(経済的格差、思想、文化など)から生じる混乱を回避するために導入された制度で、返還後から50年間は変更しないとされている(通称「五十年不変」)。

2.観光資源としての看板
2−1 個性ある街並みを創出する舞台装置

 道路の上空に大きく張り出す無数の袖看板は、香港を代表する景観の1つである。都市景観の阻害要因として筆頭に挙げられるネオン看板だが、香港の場合、大きさ、数、密度、すべてが桁違いのスケールであるにも関わらず、街並みに溶け込んでいる。その様子が顕著なのが、九龍のメインストリートである彌敦道(Nathan Road)と、その道沿いに広がる旺角(Mong Kok)や尖沙咀(Tsim Sha Tsui)などの繁華街で、道路上空に埋め尽くされた看板の下を、昼夜を問わず多くの人が行き交っている。
頭上に氾濫する看板が、通行人に対してサイン効果を果たしているかは疑問であるが、街の活気を引き立てる舞台装置として機能していることは間違いない。現に、二階建てのオープントップバスで街を巡るナイトツアーの売りは、頭上をかすめる巨大な看板とイルミネーションであり、同エリアがもっとも賑わうのはネオン看板が輝くナイトマーケットである。以上のことから、香港における看板は、地域の独自性をアピールする観光資源として重要な役割を担っているといえる。

1941年12月25日から1945年8月15日までは日本が占領していた。この日本統治時期は、香港で「三年零八個月」と呼ばれている。

2−2 看板の特徴

 香港の袖看板は、一見、無秩序に氾濫しているが、実際はお互いが重なり合わないように設置され、サイン・広告としての価値を損なわない工夫がなされている。色彩は、赤・黄・オレンジなど中国で縁起が良いとされている色が目立っており、風水を重要視する文化が根付いていることがわかる。デザインは文字のみのタイプが中心で、イラストやロゴといった抽象的なアイコンはほとんど見られない。なかでも圧倒的に目立つのは漢字で、英語が併記されたものが多い。漢字圏以外の国の人は、意味はわからずとも漢字の形状をアジアのクールなデザインとしてとらえる傾向が強く、看板の文字が連なる様子は、香港にいる実感を強く得られるコンテンツとなっている。
一方、エリアによっては漢字以外の文字を主体とした看板もある。たとえば、尖沙咀にあるコリアンタウン金巴利街(Kimberly Street)はハングル表記、西洋人が多い蘇豪(SOHO)は、英語表記のみの看板が目立つ。つまり、看板に使われる文字は、その言語の国籍をもつ住人のコミュニティが発達している場所を示しており、看板が密集することで一種のサイン効果を発揮しているのである。このことは、多くの国で共通することだが、香港の場合は、狭い都市空間であるがゆえに、多国籍文化の凝縮度が高くなっている。こうした「過密な文化」が、香港の魅力だといえる。
2−3 屋外広告物に対する規制

 日本の屋外広告物は、屋外広告物法や建築法、景観法、都市計画法などによって規制されており、香港のように道路に大きく突き出す形状は存在しない。香港も、2000年に発行されたガイドライン「Guide on Erection & Maintenance Of Advertising Signs」による広告物の規制が実施されているが、日本ほど厳しくはない(図2)。ただし、この規制は新規の広告物のみが対象で、既存の広告物の修繕には適用されないことや、無許可の広告物も多く存在しているため、実際にはガイドラインに則さないものも多い。
ガイドライン
3.香港における都市再開発
3−1.ハード寄りの再開発と市民の動向

 香港における景観政策は、湾岸部から背後の山並みにかけての高低差を利用した、見晴らしを確保することに重点が置かれている。これは、後述する風通し確保の推進政策とも連動しており、景観と衛生の視点から実施されている。一方で、高層マンション建設のために旧市街地の住人が立ち退きを迫られるケースが相次いでいる。その原因は、香港の地価が世界的に見て突出して高いことにある。香港の土地はすべてが政府所有であり、使用権売買による地価収入は、政府の重要な財源になっている。このことが、立ち退き問題を加速していると見られる。
こうしたハードありきの都市再開発に対し、市民生活(ソフト面)を考慮した「都市再生」とすべきだとして、近年、若者を中心とした市民の反対運動が高まっており、政府への影響力も増している。その背景には、「香港人」としてのアイデンティティの確立が一因にあると考えられる。香港大学民意研究計画による「エスニック・アイデンティティ調査」によると、2012年6月の調査時において、18〜29歳までの若者層約70%が自らのアイデンティティを「中国人」ではなく「香港人」であると答えており、この数値は過去13年の調査において最高となった。返還後の香港で思春期を過ごした彼らには独自の価値観があり、それが今後の地域づくりの方向性を左右するといえる。
3−2.風環境評価を軸にした都市開発計画

 香港都市計画局は、都市の風通しの悪さを改善するため2006年に「Air Ventilation Assessments」を定め、都市計画や再開発計画に適用している。その背景は、1)亜熱帯の多湿な気候条件にある香港は、急速なエアコンの普及によりヒートアイランド化が著しいこと、2)2003年に蔓延した重症急性呼吸器症候群(SARS) のように、密集した建造物が汚染物質を滞留させるリスクを高めたことが挙げられる。
風環境のアセスメントが義務づけられているのは、国家プロジェクトのみであるが、民間の開発でも同評価を用いることが推奨されている。今後、こうした動きが露店や看板が密集する繁華街に及んだ場合、「風通しを阻害する要因」として規制される可能性がある。
現状では高層ビル群などが密集するオフィス街や新興住宅地などが同アセスメントを用いた開発を行っているが、それらが一通り終わった頃には、狭い道路に古いビルが建ち並ぶ市街地、露店が密集する横町のほか、道路上の巨大な袖看板も上空の換気を滞らせる要因として指摘されかねない。
(以下の図はガイドラインの一例)
ガイドラインの一例
4.今後の課題
 「美しい景観=ヨーロッパの統一された街並み」とするならば、アジアの都市は醜悪なものといえるだろう。しかし逆に言えば、新しいものと古いものが混在し共存し合う空間が、アジアの都市の特長であり魅力ある景観だといえる。香港の場合はこれに「過密な文化」という個性が加わる。したがって、観光の視点から見れば、猥雑な繁華街および看板群が貴重な資源であることは間違いない。しかし、風環境を軸にした都市計画の視点では、看板も含め、高密度の旧市街そのものが阻害要因とされる可能性がある。問題が複雑なのは、衛生環境を整えなければ、住民のみならず来街者に対しても不安を与え、観光面においてもデメリットになるという点だ。実際にSARS問題が浮上した折には、観光客の激減、工場の封鎖など、香港経済は大きな打撃を被った。つまり、観光、環境、都市開発の問題が密接に絡み合っており、1つを優先させれば、もう1つが成り立たないという矛盾を抱えているということだ。これは、日本における古い街並み保存と災害対策の関係にも通じる問題である。
一方、中国本土とは異なる地域特性をもつ香港では、国籍や民族などの「出自」ではなく、育った「社会環境」を核としたアイデンティティが芽生えている。これからの香港の街づくりは、新たな価値観をもつ若い世代が、香港らしい景観をどう考えるのかにかかっているといえる。
以上のことを踏まえ、香港在住者の景観および看板に対する意識、屋外広告物の増減(広告物の規制による影響の有無)、看板業者数等を後日のフィールド調査により明らかにする。

SARS蔓延の原因の1つとして、過密化した都市の換気の悪さが指摘されている。

■参考文献
<書籍>

  • 福島綾子(2009)『香港の都市再開発と保全』九州大学出版会
  • 岸和郎(2012)『重奏する建築』第2章 TOTO出版
  • 小柳淳(2012)『香港ストリート物語』 TOKIMEKIパブリッシング
<論文>

  • 下光(2003)「香港における公設市場の歴史的変遷と機能の複合化に関する研究」日本建築学会計画系論文集 第563号、245-251
  • 栗山尚子(2006)「斜面都市における眺望景観保全政策の特性評価とview corridor 施策の適用に関する研究」神戸大学大学院 自然科学研究科 博士論文
  • 小室克俊(2011)「屋外広告物が都市のイメージに与える影響に関する研究」日本大学生産工学部第44回(平成23年度)学術講演会4-59
<報告書・ガイドライン>